求聞口授での「里人動物園」という説明の違和感
違和感自体は前からあったものの、どのような違和感かを今になってまとめることができたので書き留めます。
まず第一に、動物園では飼育動物に対して意図的に危害を加えるようなことはしません。
飼育に対する不理解や、展示することで意図せずストレスを与えてしまうことはありますが、意図的に与えることはしませんし、
できる限り平穏に安らかにストレスを受けないように努めているものです。
ですが、幻想郷では妖怪が人に対して危害を加えていることは様々な口から語られているので、
大前提からして動物園と呼ぶにはいささか動物園に対して失礼というものでしょう。
これで言えば幻想郷における里人は動物園における動物ではなく、
養豚場における豚や、悪く言えばフォアグラ用に養殖されるガチョウ、パピーミルと表現するのが適切ではないでしょうか。
これだけで考えればこう結論つけたいのですが、まだ疑問点が残るので
次に、そもそも里人は「妖怪に飼育されているのか?」という話。
まず第一に、動物園では飼育動物に対して意図的に危害を加えるようなことはしません。
飼育に対する不理解や、展示することで意図せずストレスを与えてしまうことはありますが、意図的に与えることはしませんし、
できる限り平穏に安らかにストレスを受けないように努めているものです。
ですが、幻想郷では妖怪が人に対して危害を加えていることは様々な口から語られているので、
大前提からして動物園と呼ぶにはいささか動物園に対して失礼というものでしょう。
これで言えば幻想郷における里人は動物園における動物ではなく、
養豚場における豚や、悪く言えばフォアグラ用に養殖されるガチョウ、パピーミルと表現するのが適切ではないでしょうか。
これだけで考えればこう結論つけたいのですが、まだ疑問点が残るので
次に、そもそも里人は「妖怪に飼育されているのか?」という話。
口授での動物園表現では、「命を脅かす敵がおらず、食事に困ることもない」とあります。
「色んな人を見ることができて退屈しない」についてはむしろ人に見られる恐怖でストレスを感じ萎縮してしまう生物のほうが大多数なので触れません。
さてここで、本当に命を脅かす敵がいないのか、食事に困ることがないのかについて考えます。
野生化における生物は常に闘争しています。それは、食う食われるの「他種との闘争」だけでなく、
獲物や居住区を共にする同種との闘争も常に行われているのです。
これは人類であっても同じことで、多くの物資と引き換えることのできるお金を人類はお互い奪い合って生きています。
むしろ他種との闘争がなくなった分だけ同種との闘争で満ち溢れていると言ってもよい。
そしてその闘争に敗れたものは結果として食や住が失われる=命を脅かされるわけです。
動物園ではどうかといえば、同種での闘争も限りなく少なくなるように設計されています。
勿論外敵なんかいませんし、食事も個体の強弱に関わらず必要な量が与えられます。
群れをなす動物では集団的なイジメで食事にありつけない個体も生まれますが、
そういった個体は個別に隔離され、全ての個体ができる限り死なないように手配されるものです。
養豚場や養鶏場といった場所でもとりあえず食料は与えられますし、少なくとも利益にはなるように個体を管理しています。
対して幻想郷ではどうでしょう。幻想郷の人々は自分で仕事をし、金銭を稼いでそれで生きていますね。
餌は与えられていません。自分で食い扶持を稼ぐ必要があるわけです。儲けの差での妬み恨み描写もあります。
仕事自体も与えられている描写はなく、むしろ家出があったり破門があったりと職業選択は自由のようで、管理はされていません。
つまり里人はこの点で人類社会と同じように人類間での闘争をして生きていることになります。
妖怪による飼育はされていないと言ってよいくらい。
口授で述べられた動物園の幸せとしてとれる面、
「命を脅かす敵がおらず、食事に困ることもない」というのは破綻していることになります。
命を脅かす敵は同じパイを奪い合う里人であり、闘争に敗れれば食事にも困ることになります。
じゃあ動物園じゃなく何と表現するのがふさわしいかというもので話を締めたいとおもいますが、
・里人は飼育はされておらず、ほぼ野生化におかれている。
・里人は個体数維持程度の管理はされている。
・里人に危害を加える存在が常に周囲にいる。
・しかし危害を加えて良い区画とダメな区画が存在する。
これらから考えて、幻想郷における里と里人は、キツネ狩猟区における禁猟区とキツネと表現するのが良いと考えました。
自然保護区とするには危害を加えているので相応しくなく、
その他動物飼育に例えるのは先ほど述べた通りです。
当たり前ですが、キツネにとって狩猟区の存在も猟師の存在も百害あって一理なしですね。
人間がいなくたってキツネは絶滅しませんから。
「色んな人を見ることができて退屈しない」についてはむしろ人に見られる恐怖でストレスを感じ萎縮してしまう生物のほうが大多数なので触れません。
さてここで、本当に命を脅かす敵がいないのか、食事に困ることがないのかについて考えます。
野生化における生物は常に闘争しています。それは、食う食われるの「他種との闘争」だけでなく、
獲物や居住区を共にする同種との闘争も常に行われているのです。
これは人類であっても同じことで、多くの物資と引き換えることのできるお金を人類はお互い奪い合って生きています。
むしろ他種との闘争がなくなった分だけ同種との闘争で満ち溢れていると言ってもよい。
そしてその闘争に敗れたものは結果として食や住が失われる=命を脅かされるわけです。
動物園ではどうかといえば、同種での闘争も限りなく少なくなるように設計されています。
勿論外敵なんかいませんし、食事も個体の強弱に関わらず必要な量が与えられます。
群れをなす動物では集団的なイジメで食事にありつけない個体も生まれますが、
そういった個体は個別に隔離され、全ての個体ができる限り死なないように手配されるものです。
養豚場や養鶏場といった場所でもとりあえず食料は与えられますし、少なくとも利益にはなるように個体を管理しています。
対して幻想郷ではどうでしょう。幻想郷の人々は自分で仕事をし、金銭を稼いでそれで生きていますね。
餌は与えられていません。自分で食い扶持を稼ぐ必要があるわけです。儲けの差での妬み恨み描写もあります。
仕事自体も与えられている描写はなく、むしろ家出があったり破門があったりと職業選択は自由のようで、管理はされていません。
つまり里人はこの点で人類社会と同じように人類間での闘争をして生きていることになります。
妖怪による飼育はされていないと言ってよいくらい。
口授で述べられた動物園の幸せとしてとれる面、
「命を脅かす敵がおらず、食事に困ることもない」というのは破綻していることになります。
命を脅かす敵は同じパイを奪い合う里人であり、闘争に敗れれば食事にも困ることになります。
じゃあ動物園じゃなく何と表現するのがふさわしいかというもので話を締めたいとおもいますが、
・里人は飼育はされておらず、ほぼ野生化におかれている。
・里人は個体数維持程度の管理はされている。
・里人に危害を加える存在が常に周囲にいる。
・しかし危害を加えて良い区画とダメな区画が存在する。
これらから考えて、幻想郷における里と里人は、キツネ狩猟区における禁猟区とキツネと表現するのが良いと考えました。
自然保護区とするには危害を加えているので相応しくなく、
その他動物飼育に例えるのは先ほど述べた通りです。
当たり前ですが、キツネにとって狩猟区の存在も猟師の存在も百害あって一理なしですね。
人間がいなくたってキツネは絶滅しませんから。